06/08/13 北海道ツーリング2日目
8/13(日)晴れのち曇
ホテルむらかみで、豪華な朝食を食べ、7時半過ぎに出発。まずは、広尾駅跡近くのセブンイレブンで水を買う。コンビニは「セイコーマート(カードも作ったし)」と決めていたが、広尾にはセイコーマートはなかった。
走り始めてすぐ、茅沼氏のBD-1の両側につけられたマッチバックの調子がよくないことがわかった。荷物が重すぎて、ハンドルが取られるのだ。後ろから見ても、フラフラと危ない様子だ。マッチバックを軽くすべく、工具はBD-1のフレームにとりつけ、衣類の入った布の袋を、後部に取り付ける(これが、実にうまくフィットした)。 結局、走り始めたのは8時だった。
朝起きたときは快晴だっと思ったのだが、日が昇るにつれて、海から霧がただよい始める。十勝港からは、朝早くからひっきりなしに汽笛が聞こえていた。霧による衝突を防ぐためだったのだろう。
海沿いの道路に出ると、すぐに「黄金道路」の標識が見えた。「黄金道路」とは、広尾町広尾から庶野までの30キロの国道336号のことだ。あまりの難工事に巨額の金がかかったため、「黄金をしきつめたぐらい費用のかかった道」ということで「黄金道路」と呼ばれている。
黄金道路に来るのは三度目だ。一度目は1986年11月。このときは16時半過ぎですでにとっぷりと日が暮れ、まっくらな中、何も見えずに進んだ。二度目は1990年9月。このときは大雨で、やはりほとんど何も見えなかった。
今日は晴れてはいるが、霧が徐々に濃くなり、前がよく見えないまま進むことになった。ふいに霧が払われて青空がのぞいたかと思うと、また霧が目の前を覆う、といった具合に、天候はころころ変わる。
黄金道路の地形は、海ぎりぎりまで絶壁で、岩を削って作ったと思われるわずかな砂浜に、道路が張り出すようにつけられている。さらに、落石や波を防ぐようにシェルター(覆道)となっている箇所が多く、まるで回廊を走っているような感じになる。
走り始めてすぐに、フンベの滝が見える。地下水が岩から染み出して滝になったもので、切り立った岩肌を流れ落ちる水が、そのまま道路わきに池のようにたまっていく。ただしこの日、フンベの滝周辺は落石があって、柵に囲われていた。すぐそばに「落氷注意」の標識があったので、冬は凍ってしまうのだろう。
今日も昨日に続き向かい風だが、アップダウンがまったくないので、走るのは割と楽だった。しかも、風が強くなるにつれて霧も晴れてきた。
黄金道路には、途中、集落が二つある。そのうちの一つ、音調津(おしらべつ……響きも漢字もとてもいいです)には小中学校があった。けれども、基本は集落も農地も牧場もなく、トンネルかシェルターか、断崖絶壁に海岸線ぎりぎりにつけられた道路、それだけである。音調津と次の集落・目黒との間に、広尾町とえりも町の境界線がある。広尾町は、近年に合併したわけでもないのに実に広い。
音調津の先のタニイソトンネル、左に旧道のトンネルがあるがこちらは通行止めだった。2kmほどのトンネルを抜けると旧道と合流、旧道のトンネルは「黄金トンネル」という名だった。
次の目黒地区の先にあるトンネルは最も長いウエンベツトンネルで、全長3.2キロもあった。こちらも旧道は通行止めなので、トンネルを通るしかない。あまりに長い距離である上に、歩道は狭くて自転車では走れない。そのためか、歩行者・自転車用に反射板の貸し出しがあり、腕に巻いてトンネルを通るように、となっていた。この反射板、端をおりまげると、自然にくるっと巻き上がるようになっていて、私は左右両方の腕にまきつけてしまった。
トンネルの出口には回収箱があって返却したが、記念に持って帰りたいぐらいだった。代わりに、なぜかティッシュと携帯灰皿が持ち帰り自由で置かれていたので、それぞれ一つずつもらってきた。喫煙はしないのだけれど。
ウエンベツトンネルの先は咲梅トンネルと白浜トンネルが続くが、ここは旧道が通行可能だったので旧道を選ぶ。車のとおらない道で、BD-1を道路の真ん中において写真撮影。トンネルよりもこういう道のほうがはるかにいい。
トンネルの新設工事は次々と行われているようだ。波や雪やがけ崩れを考えると、波打ち際ギリギリの道路よりもトンネルの方がメンテナンス費用は少ないし、利用者にも便利なのだろう。こうして工事はいつまでも続き、黄金道路はますます黄金色に輝くわけである。ちなみに、トンネルの中はとても寒い。
庶野の集落の手前、望洋台に「黄金道路」の石碑が建てられていた。ここからの眺めはすばらしかった。いかに厳しい地形に道路がつけられているかよくわかる。霧もすっかり晴れ、青く澄み切った空と海をながめられ。黄金道路は、今回の旅のメインでもあったので、非常に運がよかった。望洋台で休憩をしていたロードレーサー・ソロの大学生に、二人いっしょの写真をとってもらう。
庶野の集落をすぎると、襟裳岬とえりも市街への分かれ道につきあたる。国道336号はえりも市街へショートカットするが、私たちはえりも岬へ向かう国道34号へ左折する。こちらの道を選択するのは、襟裳岬への観光客ばかり、仕事の車やトラックが激減し、道はガランとなる。
快晴の空の下、右手にはやわらかな稜線の山に牧場、左手には輝く海。車も少なく、再校の気分である。どことなく、昨年走った宗谷岬への道に似ている。北海道の岬への道は、どこも同じような感じなのかもしれない。
襟裳岬の8キロ手前、百人浜には展望台があり、原野と海を高い位置から眺めることができる。また、展望台には襟裳岬の歴史が写真パネルとで展示されており、昭和20年代には放牧で荒地となってしまった襟裳岬が、その後の植林事業で今の姿になったことを知った。
快晴がいつまでも続けばよかったのだが、そこは強風・霧で有名の襟裳岬、百人浜を過ぎたあたりから、また霧が出始める。霧の中は小雨が降っているような感じで、体がじどじとしてくる。さらに、向かい風がますます強くなってきて、岬までの道はとてもきつかった。風の抵抗を少なくするために低姿勢で、地面ばかり見て走っていた。
正午にようやく襟裳岬へ到着。襟裳岬に来るのは16年ぶりである。岬には「風の館」というテーマ館がができていて、岬の周りもちょっとした公園のようになっていて雰囲気が変わっていた。16年前は、ここで4時間!も路線バスを待った記憶があるのだが、そのとき時間つぶしに気をまぎらわせてくれたのがゼニガタアザラシだった。何十頭も岩場でゴロゴロしていたように思うのだが、今日は一頭も姿が見えず、残念だった。岬の土産物屋兼食堂でラーメンを食べる。ツブ貝など海の幸がトッピングされた塩ラーメン「えりもラーメン」はおいしかった。
たっぷり休息をして13時に出発。襟裳岬の西岸に出るとさらに霧が濃くなる。景色もそれまでの「断崖絶壁」から「原野」へと変わっていく。えりも市街までは海岸を離れ、少し内陸部に入り、30メートル程度のアップダウンが繰り返され、結構体にこたえた。襟裳岬を回ったから追い風になるかと思っていたら、なぜか風向きが変わり、これもまたきつい原因となった。えりも市街に出て、また海岸沿いになってようやくアップダウンがなくなった。
道立襟裳高校前にセイコーマートがあって、一休み。お盆だったので、この町を出て行った人たちが帰ってきていて、セイコーマートで買い物をしているらしい。「あらぁ、○○くん、久しぶり~、いつ帰ってきたの?」「昨日、帰ってきたんです」そんな会話が聞こえた。
今日の宿、様似まで25キロ、海岸線を北上する。道路沿いは、昆布漁がメインの漁村が続く。霧と曇り空で海は荒れ気味。たまに高波が道路を超えてしまい、歩道には昆布がたくさん打ち上げられていた。実際、タイミング悪く、一度だけ高波をかぶってしまった。ぬれた体をふきながら、ふと、海と反対側のがけを見上げるとエゾ鹿の親子が見えた。
鶏の鳥岩というのが地図に出ていたので幌満トンネルの迂回道に入ったが、途中で立ち入り禁止のゲートがあった。近くでつりをしていた方が「通り抜けできないよ」と教えてくれたので岩まで行ってみることとした。名の通り鳥に覆い尽くされたような岩が海から突き出ていた。前方にがけ崩れの現場が見えた。先ほどのゲートに戻ってトンネルをぬけた。この先の覆道の途中に左へはいる道があり、旧道を通った。
この頃から、山側には青空がもどってきていた。けれども海は相変わらず、霧なのか曇りなのか、もわーんとしている。これも襟裳岬周辺の特徴なのだろうか。
16時過ぎ、ようやく雲の切れ間から日がのぞいたころ、様似に到着した。まずは、日高本線の終着駅、様似駅へ。ちょうど、列車がやってきたところで写真撮影。列車を降りてきた乗客は十人にも満たなかった。日高本線、私の記憶では、もっと旅行客が乗っていたと思っていたのだが。様似駅では「JR北海道バスキティストラップ」が売られていた。キティストラップ(根付)コレクターの私としては、レア物で大喜びだった。
襟裳岬周辺のバスは、かつては国鉄バスで、現在も全部JRバスだ。国鉄がらみなのは、その昔は、襟裳岬を鉄道で縦貫する計画でもあったのだろうか。鉄道同様、バスにもほとんど乗客はいなかった。終着駅の駅前はさびしいかぎりだ。
「
駅前民宿
」が本日の宿だ。その名のとおり、様似駅のまん前にあった。本日の宿泊者は、私たちを含めて全部でたったの4名。お盆の最盛期のはずなのに……。20年前にも様似の民宿に泊まったのだが、町を見渡しても、あまりにさびしくなってしまった様子に、どこに泊まったのか、どうしても思い出せなかった。
夜のお供は、北海道限定ビール「北の職人」。でも同じ北海道限定ならば「サッポロCLASSIC」の方が私の好みである。